いやー。
日記を書かない日々も、本は増殖するばっかりです。鋼の錬金術師なんかもう6巻まで出てるし。↓の方の日記ではまさかアニメ化するとは思っておりませんでしたよ。


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わ!うちのとろ坊ちゃん(茶トラ白・雑種)が日記に参加してくれましたよ。
とろは今、私の膝でちゅぱちゅぱもみもみ赤ちゃんがえりしてます。
とろは自分の後ろ右足の肉球をしゃぶる癖があって、夢中になっているすきに、私は爪を切ってしまうのですが、気が付いたら爪が短くなっている事を不思議に思ったりしないのでしょうか。
あと、耳の中のチェックとか、歯茎のちえっくとか、普段は嫌がって触らせてくれない所を触りまくりですが、猫の脇の下ってたぷたぷして気持ちの良いものですね。

かように猫が好きなので、やっぱりとか、いまさらとか言われてもモーリーあざみ野(このネーミングセンスは如何。)著の「いつでもどこでもネコ町物語ナーゴ」と「ナーゴの子猫たち」は(NHK出版、各税別2,000円)購入しておるわけです。

世界のどこかにある(らしい)「ナーゴ」という「猫と共栄共存している国」の猫を紹介する、ものすごく可愛い絵本・・・です。
ああ。
キモはなんといっても可愛らしい猫のイラスト満載で、猫好きの人ならそれだけで胸が一杯になる・・・しかし。
「ナーゴ」という国、こりゃ猫飼いの夢だよ、そこはまるでガンダーラみたい。(設定ではイタリアの近くなので西洋なのだけれど)
誰か私を「ナーゴ」に連れてってくれよ、頼むよほんとに。
大人も子供も猫だけでなくみな動物が好きで、命あるものを尊ぶ気風があって、家のない猫を住民たちの基金で養ったり、里親を探したり・・・。
のびのびと自由に暮らす猫たちと、それを暖かく見守る人間たちのまなざし・・・。

そんな国があるのなら、私はぜひそこに住みたい。

もー作者の想像力・・・というか「ナーゴ」世界を構築する力にはやられました。
ほんとに生き生きとしたタッチで、子供なら素直に楽しめて、屈折した大人(私だ)ならちょっぴり切なくなってしまう本でした。
私の職場には捨て猫が多いです。
条件が揃っているんでしょうね。

1.車でしか来れず
2.山の中で
3.人が多い

嫌な条件だ。

飼えなくなったから保健所直行、とかいう外道は論外ですが、中途半端に猫好きな人も困りますな。
人が一杯いるから、きっと拾ってくれるだろう、って考えは甘いよ。うちの上司は猫大嫌いだから、平気で猫を車でこりっと轢いて殺しちゃえ!とかいうような人物ですよ?
(この上司にはいろんな意味で感心するよ、いろんな意味でね)
大体、うちの職場は冬の間はずっと雪が積もっている、厳しい場所で、そこに猫を捨てていく、ってのは動物虐待してる人と変わんない。

で、で。

そんなダメ飼い主の尻拭いをやってしまいましたよ。
子猫ちゃんが、鬱蒼とした暗い山道を、一人で
テクテクしていたら、あなた、どうします?
鼻水と涙だらけの、こ汚い子猫たんが、みゃーって鳴き(泣き?)ながら、私の愛車に近寄ってきたら、それを拾わなくちゃいけない気分にもなりますよ。

で、猫が増えてしまいました。

名前はみろ。
毛並みはロシアンブルー風、ただししっぽがカギ尻尾。目の色は黄色。

可愛いんだけどものすごい暴れん坊。
昨日は口から血を流していてすごくびびりました。おもちゃのネズミに夢中で、咥えたり投げたり遊んでいるうちにどっかにぶつかって口の中を切ったらしくて、ネズミが血まみれに・・・・。ひー。
わ、わんぱく小僧・・・。

みろたんは可愛いですが、これ以上は家も飼えません。
ちゃんと去勢しますよ、終生家の中で飼います。
そして大切にします。

だから、あなたも大切にしてください。
猫を捨てる、なんて事しないで。


奴のシャツ

2003年10月28日
いや、長い放置でしたな。
ボタンを掛け違えたような、居心地悪さ。
まま、こりゃよくあるダメ人間の過ちでして。

三日坊主とかさー。
夏休みの宿題は31日に仕上げるとかさ。
そーゆう人間ですから、今も人生に乗り遅れてるところです、ただいま結婚相手募集中!って、そりゃあんた、小娘ならば許されるさぶいギャグ(ギャグ?)でんがなまんがな。
まーいいや、
そんなわけで、フッカーツ!

猫も増えたよ!


いや、BGMじゃキリンジ、最高ですな。
パラサイトじゃないけど、奴のシャツは痛いよ!!
ちゃんと生きようね。自分。


現実逃避にはもってこいの日和ですが、今日も会社に行ってしまう、律儀な日本人であるところの私は、せめて他人の人生などに感情移入する程度で満足しようと思っているのですが、「いい年してこんな風に時間を無駄にするなんて」とか「戦争で苦しんでいる人々を見よ、このゴクツブシ!」とか自分の中にすんでいる「世間様」の呪いからいつまでも逃げる事ができなくて、こんな風に罪悪感を感じながらもだらだらとネット日記などを書いているのです、お母さん、いいかげんあなたの顔は忘れてしまいました。みたいな。

「鋼の錬金術師」荒川弘著1〜4巻(各390円税別、エニックス)を大人買い。
大人になって何がいいと言えば欲しい物を(手に届く範囲で)自由に買える事くらいだな。
酒もやらんギャンブルも打たない、タバコも吸わないので、その程度の大人感しか持ち合わせていません。もっとも、そんなの最近では学生時代からやってる人もいるので、大人と子供の境目は、あとはもう精神的な部分での心構えの違いのみ、って気がする。
ちなみに私の考える大人の人とは、「自分の発言に最後まで責任が待てる人」という、きわめて陳腐なもですが、実際そうゆう人ってあんまりいない。
自分を含めて。
知識だけは大人なみに持ち合わせている子供が、年齢だけは大人になってしまっている中身子供と変わらん人をバカにする→でもその子供たちも、もっと若い子供たちにところてん式に押し出されてバカにされ・・・みたいな風潮も、今に始まった事ではないけど、最近は著しく感じるなあ。

前振りが長いんですが、友人に勧められて大人買いしたこの漫画、実に主人公達が自分の発言(というか主義というか、なんていうか)を貫きとおそうとする、小気味のいい連中で、すっきりします。
エピソードにはうんと厭な救いようのないものもあるけれど、主人公達の「前進しよう」とする姿勢にぐいぐい惹きつけられます。
前進したいものです。

「ニュールーマニア ポロリ青春」はプレイステーションのゲームですが、これはまた明日にでも。

二つの塔

2003年3月21日
おくればせながら指輪物語を見に行ってきました。
昔の友達3人と、昔の気持ちで見に行ってきましたが、やはり今は昔ではないのだな、と思いました。
訳わからん。

映画は面白かったですが、何しろ上映時間が長い。
トイレは事前に済ませましょう。
私はちょっと地獄を見ましたよ。

それにしても切ないのは、時間はどんどん過ぎて、
人は、変わってしまう、ってことです。

今は夕方

2003年2月16日

会社に行って、頭があんまり痛いので即帰宅。

今年初めてみた映画が「黄泉がえり」だった自分の人生とは、どんなものだか思いを巡らす。


今は朝

2003年2月13日
そして、まだ夜明けはこない。

寒いので猫が布団にもぐりこんできます。
愛い奴め、と思うけれど、ファンヒーターをつけた途端その前に移動していく、薄情な一面も。

かと思うと、厳寒の玄関に丸くなっている、神秘的というより訳わからん猫様たち。
LOVE。

今日は温泉に行く予定。
腐るほど温泉はあちこちにあるので、それだけは気に入っている群馬県。
でも、本当は群馬県は好きじゃないのです。

と、言うより、自分がなじめないだけでしょうが。

一つエピソードをあげると、
「以前勤めていた会社で、ある資格をとるために、講習を受けていました。
そこには他の会社の方たちも来ていて、中に、前のほうの席でも堂々と突っ伏して眠っている20代前半の、いわゆる今風の若者がおりました。
その人は講師の先生に何度か、眠っているなら外に出て眠るか、眠気をさましてきなさい、と注意をされていました。しかし、敬語を無視する、いまどきの若者は態度を改めません。
ある日、とうとうぶちきれてしまった先生、相変わらず眠っている若者に、黒板消しを投げつけてしまいます。
若者は、チョークで汚れたスーツを無表情に払うだけで、何の言葉も発しません。
先生はさすがに黒板消しを投げつけてしまったのは、やりすぎてしまったと、その若者に謝ります。
ただ、これからは注意したように起きて欲しい、と言うと、若者は黙って部屋を出て行きました。

講義が終ったあと、私と一緒に講習を受けていた先輩(40代、妻子もち)の方が、その若者に近づいていきました。
注意でもするのかと見ていると、
「えらいなあ、よく我慢した、俺ならあんなことされたら黙っていない」
と、若者を褒めているではないですか。
若者も、仕事だから我慢したとかなんとか言っているではありませんか。
周りの人たちもより一層若者に友好的な態度になっていくではありませんか。
私は異邦人のように、ただ黙ってその風景を見ているのでした。」
そんな気風があふれているように思います。
群馬県には。

仕事で、嫌々、この会場に来ているのは、皆一緒ですが、さすがに社会人が堂々と突っ伏して眠るのはどうなんですか。
むしろ先生に感情移入してしまった私が、おかしいのかもしれません。

今は真夜中

2003年2月12日
おひさしぶりです。
みなさん元気でしたか?
誰かが、悲しい思いをしている時、誰かが、明日に希望を夢見ている。
生まれてくる人がいれば、死んでいく人がいる。
不思議だな、と、単純に感心する。

そんな事をぼんやり考える毎日。

過剰に何かを表現する人は、そのぶん欠落している何かがあったり、控えめな人は、そのぶんみっちりと充実した芯があったり。

自分は幸せだと、常に思えていないと不安なのは、たぶん魔境に落ちているようなものだなとか。
自分は不幸だな、と思えるのは、たぶんまだ、誰かに甘えていられる余裕があるのだな、とか。

取り留めの無いことばかり、手元でこねこね弄んでおり、ねこはもっと遊んでとせがみ。

ああしたも仕事だから、STOP JAPでも聞いて寝よう。
おやすみなさい。

「グーグーだって猫である」2巻ゲット。
しあわせ。
エッセイ漫画で、内容は辛いことも一杯なのに、大島さんが不幸にちっとも見えない。
これは凄いことです。
ガンと闘病しながら、大島さんが猫たちと過ごしていく、その日常。
静かで、孤独にもみえる大島さんの日常。
でもちっとも不幸に見えない。
なんて、すごいことでしょう。

私は、大島弓子と言う漫画家を知る事ができて、とてもしあわせです。


猫はいいですね。
うちも2匹と同居しているのですが、たとえば、


猫が逆光の中に佇んでいる。
真昼、静まり返った家の中で、私は仰向けに寝転び、猫の思索の邪魔をしないようにじっとしている。

そのうちうたた寝してしまうと、私の脇腹のあたりがほっこり暖かくなっている。
探ると、柔らかく、暖かく、優しい。
寄り添っている小さな寝息。

なんて愛しい。

もし猫がいなければ、世界はもっと、つまらないものになっていたでしょうね。

今日はお休み。
で、家の片付けしたり、あんまり趣味ではなかった成人コミックをバイバイ。題どうり160円也。

エニックスとスクエアが合併するとかなんとか。
ちょっと昔の私なら、もっとびっくりしただろう。
そういや、エニックスのアルバイト落ちたっけな。
一緒にいったwは受かったのに。

そんなことよりも、今日はカラオケ三昧。
ハイパーJOYにてマニアックな歌を歌いまくり。
いやー「バーバラ・セクサロイド」は名曲だな。
「山頂晴れて」がカラオケで歌える日がくるとは。
連れのAさんは引いていたけれど、私と妹は大満足だよ。ごめんねAさん。

それから猫の去勢。
可愛いんだけどね、なんかポンポンみたいなんだけどね、ごめんね、とろちゃん。
麻酔や手術することによって、万が一のことがあっても、一切責任を問いません、って書類にサインして、とろを預けてくる。

仕方のない事なのだけれど、もし私がもっと金持ちであったなら、まろもとろも、避妊したり去勢したりしなくてよかったんだな、と考えると、猫に申し訳ない気持ちで一杯になる。

それも結局感傷にしかすぎないのですが。


ネットを離れて、しばし。

変化は誰にも見えないところで、ゆっくりと確実に起こっているものです。
そう、たとえば原子炉の中。
あなたの細胞の中。
あるいは光年かなたのブラックホール。
もしくは私の心の中で。

「魂など見た事がない」からと、
「魂は存在しない」と男は考えたが、
「ではあなたの命を見せてください」
「それでもあなたの命は存在する。目に見えないからといって、無いわけではないのです」と
少年に論破されてしまった、
哀れな単細胞には同情いたします。

私は時間というものを見た事がない。
「時間よとまれ、そなたは美しい」と
言ったこともない。
目に見えないところで、でも確実に。

そんなわけでまた何事も無かったように。
みなさま、よろしくです。
ちなみに、哀川翔祭りもまだ続行中。
「デッドオアアライブ1〜ファイナル」はおすすめです。


「うなぎ」、面白かったですよ。
翔ちゃんはちょっとしか出なかったけど、なんだかわけのわからない探偵(主)役より、とっぽい(脇)役のほうがよほど彼の魅力が引き出ていたよ。

今日は「復讐」をかりて見ます。

今週は翔ちゃん祭り。

朝から朝までダブル太陽な、350日、働きっぱなしの翔ちゃん。
喧嘩は相手の懐に入って首を狙う、実践派の翔ちゃん。
哀しい川を翔ぶ男、そいや!!汚れちまった悲しみに。

私のようなにわかファンの事を苦々しくお思いの本気(とかいてマジ)な先輩方、すみません。
自分は昨日、「冷血の罠」(もちろん翔ちゃん主演)をレンタルして見ました。

率直に意見を述べさせていただければ、
「単調で、なんのひねりもない話」でした。
俳優さんでかろうじて見れる、そーゆう感じです。
一緒に見ていた妹など、なんど意識を失いそうになったことか。
あと妙にホモくさい(主要登場人物はほぼ翔ちゃんと義理の弟のみだし)話でした。
そういうのがお好きな方には、いろいろ想像できて楽しいかも。

今日は「うなぎ」を見ます。
もちろん翔ちゃんを見るためです。


今日はお休み。

猫に噛まれたり、ひっかかれたりしながら爪を切り。猫どもの為にホットカーペットをだし、ストーブを出したり。

ああ、まさに愛の奴隷のよう、とかなんとか。
「変玉」好きだったのになあ、またでないかしら。



ありがとう。

そう伝えたいのです。
1匹の猫に。

大島弓子さんの漫画が好きなんですが、これが児童、生徒の頃はまったく受け付けませんでした。
もう嫌いで嫌いで、いや、嫌いというか、読むのが辛かったんでしょうな。
リアル少女だった頃には、大島さんのお話しはあまりにも痛々しく、読めなかったのです。

でもいつの頃か、大島さんと「サバ」という飼い猫との淡々とした日常漫画を描き始めて、これはエッセイ漫画が好きだったんで、あんまり抵抗なく読み始めたのですよ。

サバと大島さんの、澄み切った冬の空のような、静かな暮らしが綴られている、その漫画の面白いこと。

そこからは一気呵成です。

その後大島さんはグーグーという名前の、気のいい猫(あと他にも3匹の猫ちゃんがいるらしい)と暮らし、同じに扱っていいものか、私んちでも二匹の猫と縁あって暮らしてます。(タイトルの琥珀色、翡翠色は、家の猫の瞳のいろでおます。)

「サバ」との暮らしがあったから、今の猫たちをより理解できるし、病気とか付き合い方に気を配れる、「サバが今の猫たちを守っている」のだ、と作品の中で大島さんは語っておられます。

でもサバに守られているのは、大島さんちの猫だけではなく、私の家の猫も、大いにその恩恵を受けているわけです。そして、あとから考えても、「サバ」シリーズがなければ私はずっと大島弓子という豊かな庭園を、一生知らずに過ごしてしまったんではないか、と思うのです。

「サバ」は今はもう、俗世にはいない猫です。

だから、いつか、私もそこに逝くときは、ぜひサバにお会いして、お礼を述べなければ、と思う今日この頃です。
生きていく上で、なにが大切なのか、考える。

人によって恋人とか、金とか、あるのだろうけれど・・・・・。

どんな想いもいつかは変わっていく。
どんなものもいつかは。

生きていく上で必要なのは、ただ命だけな気がします。

そう考える時、私はほっとするのです。

「世界は君に関係なく、君は世界に関係ない」
昔好きだったミュージシャンの言葉。
または。
「世界は君に関係があり、君は世界に関係がある」
どちらでも同じ事。

「何でも出来るし、何にも出来ない。どちらでも同じ事だけどね」
好きな漫画家さんの漫画の台詞。


生きる。ただ生きる。
存在する謎と、そのまま答えとして。

日野敬三を読んでいると、「しなやかにからっぽ」になっていく、気持ちのいい感じです。

「本棚は世界中のどこにでもある」

そう言うわけで、私は本棚に向かって途方にくれております。

いえ、別にそんなに蔵書があるわけでもないのですが。

まずはいらなくなった雑誌を整理にかかり・・・・あ、この漫画好きだったなー、とかなんとか。
片付けているはずが、漫画を読みふけってしまう罠。
京極夏彦になりたい今日このごろ。

で、まあぽちぽち片付けていると、なんか懐かしい本が出てくるわ出てくるわ。
澁澤龍彦の本が何冊か、寺山修司の本が何冊か、橋本治の本が何冊か、中島らもの以下略。
最近、唐沢俊一のホームページを欠かさず毎日見にいってしまうのですが、それはなんでかといえば、思うに澁澤龍彦とどこか似ているからではないかと。何処がどうにているかときかれても困ります。

ああ、この本を読んでいた時はこんなこと考えていたなあ、とか文庫本を手にとったとき、過去が芋づる式でよみがえり、その掘ったお芋をぴかぴかに磨き上げるのは(大島弓子(C))楽しいとか切ないとかそんなモンではなくて、なんかこう、とても自動的です。
勝手に蘇ってくる脈絡のない記憶たち。
人間の脳の仕組みってふしぎですね。

それはいいとして、またもや読みふけってしまう罠。整理整頓は苦手です。


今日は妹も休みなので、一緒に本屋へ。

日野敬三氏の著作を探すがみつからず。
やっぱりね。
常々思っているのだけれど、私の住んでいる地域にはちゃんとした大きな本屋ってものが存在しません。
文庫もハードカバーの本もあまり置いてない、大体がレンタル屋+玩具屋+CDショップみたいな複合型店舗で、ほかに何処にも行く当てのない田舎の若者の溜まり場みたいな店ばっかりです。

そしてまた、図書館もあまり充実していない。
本好きな人間にはなかなか厳しい状況です。

家では何度も「Living Zero」「魂の光景」「天窓のあるガレージ」再読。
多分今月のヘビーローテーションになりそうな予感。

私は、その人のことをよく知らない。
その人の著作も、数冊持っているだけで、自分のホームページの「好きな作家」欄に書き込んでもいない。

家の中の有象無象、混沌と化した本棚の中に、その人の意志はそっと隠され、今の今まで私はその存在を忘れてさえいた。

なんで忘れてしまっていたのか。

ありていに言えば、それは私が愚かだからで、日々の生活にあくせくし、楽しいことはあっというまに消費してしまうくせに、恨みつらみや苦しいことはいつまでも物持ちがよく、手元でそれらどうでもいいことばかりをいぢくっては心を囚われ、そんな風に生きているうちに、どんどん大切な記憶を失っていったからです。
記憶と書いたそばから、なんだか違うような気がしてきました。記憶というよりそれは、より感覚的なもので、感触、というか。

私は、その人の著作を読むたび、深い夜の海に沈んで、何か夜光虫が輝く、ほの明るい波間を仰ぎ見るような気持ちになったり、あるいは、真夜中、誰もいないオフィス街をさ迷い、無機質なコンクリートの壁にもたれた時の、あの気持ちいい冷たさを「思い出し」たりしたものでした。

他のどんな作家より、その人の書く文章が、私の「身体的記憶」「脳的体験」「心的痛覚」に、訴えかけてくるものがあるのです。
私はその人のことを知らない。
でも、その人の描き出す幻視的な感覚は知っている。

その人の名は日野敬三。
今は氏の魂が安らかであるように、俗世からお祈りいたします。
小川未明読書続行。

思うところはいろいろあるのですが、それをどう言葉へ変換すればよいか、難しいなあ。
自分の気持ちを迷いなく表現できる人は素敵ですね。

とりあえず童話を読んでいて思い浮かんだのは、「美しい魂」という言葉です。
あー、なんだか。
いたるところで商品化されてしまって、かなり汚れてしまった「美しい魂」という言葉ですが。(←偏見です。)

(この日記は途中です)

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